第一章 雨の日の入社
真壁直人が東央リアルエステートへ入社した朝、会社では一人の社員が消えた。
もっとも、その事実を直人が知るのは、しばらく後のことである。
その日は、朝から雨であった。
梅雨にはまだ早かったが、空は季節を間違えたように暗く、風が電線を鳴らしていた。テレビでは、午後にかけて雨脚が強まり、場所によっては警報級になると伝えていた。
直人は玄関で革靴を履きながら、妻に言った。
「初日から雨か」
「営業なんでしょ。替えの靴下、持っていったら?」
妻の美紀が、小さなビニール袋に靴下を入れて差し出した。
「そこまでしなくても大丈夫だよ。今日は研修だろうし」
直人は笑った。
その靴下が、日が暮れる前に必要になることを、彼はまだ知らなかった。
三十六歳。
人が新しい人生を始めるには、少し遅いようにも思え、諦めるにはまだ早すぎる年齢である。
直人は、十一年間勤めた住宅設備会社を辞めた。
会社に大きな不満があったわけではない。上司から怒鳴られることもなく、休日には休めた。給料は高くなかったが、毎月決まった日に振り込まれた。
それでも辞めた。
十一年働いても、直人の名刺には役職がつかなかった。
後から入った若い社員が主任になり、会議で意見を求められるようになった。直人はその横で議事録を取り、使い終わった会議室の椅子を元に戻した。
会社が悪いのではない。
自分に何かが足りないのだ。
そう考えるようになったころ、転職サイトで東央リアルエステートの求人を見つけた。
〈未経験歓迎〉
〈年齢・学歴不問〉
〈完全実力主義〉
〈年収一千万円も可能〉
写真の中の社員たちは、腕を組み、歯を見せて笑っていた。
背景には高層マンションがあり、その向こうには青空が広がっていた。
直人は、その写真を何度も見た。
自分も、変われるかもしれない。
その会社へ入れば、誰かに認められる人間になれるかもしれない。
面接を担当した営業部長の黒崎は、直人より二つ年下だった。
黒崎は直人の職務経歴書をひととおり眺めた後、机の上へ置いた。
「十一年も同じ会社にいたんですか」
「はい」
「ずいぶん我慢しましたね」
その言葉に、直人は救われた気がした。
黒崎は続けた。
「うちは年齢も社歴も関係ありません。必要なのは、人生を変えたいという気持ちだけです」
人生を変えたい。
直人は、その言葉を待っていた。
人は、自分が信じたい言葉を差し出されると、それを相手の誠実さだと思ってしまうことがある。
入社初日、直人は始業時刻の三十分前に会社へ着いた。
駅から会社までの十分ほどで、スーツの肩が濡れた。
ビルの三階にある事務所へ入ると、すでにほとんどの社員が出社していた。
しかし、誰も「おはようございます」とは言わなかった。
電話をかけている者。
物件資料に蛍光ペンを引いている者。
立ったままコンビニのおにぎりを口へ押し込んでいる者。
入口近くでは、若い社員が濡れた床を雑巾で拭いていた。
直人は、求人広告の写真を思い出した。
あの写真では、全員が笑っていた。
事務所の正面には、巨大なホワイトボードがあった。
上部に赤い文字で、こう書かれている。
〈数字は嘘をつかない〉
その下には、営業社員の名前と契約件数が成績順に並べられていた。
一位の横には金色の星が貼られ、最下位の名前には赤い線が引かれていた。
中央付近に、一か所だけ不自然な空白があった。
名前を消した跡らしく、黒いインクが薄く残っている。
直人がそれを見ていると、背後から声をかけられた。
「真壁さんですよね」
振り返ると、細身の男が立っていた。
神谷修平。
二十九歳にして営業主任を務め、直人の教育係になる男だった。
「今日からよろしくお願いします」
直人が頭を下げると、神谷は直人の顔ではなく、胸元を見た。
「ネクタイ、少し曲がっています」
「あ、すみません」
直人は慌てて結び目を直した。
「お客さんは、そういうところを見ていますから」
神谷はそれだけ言うと、濡れた床を拭いていた若い社員を呼んだ。
「坂口。そこ、まだ水が残ってるぞ」
「すみません」
「お前は何をやらせても中途半端だな」
坂口と呼ばれた社員は、二十代前半に見えた。
反論はせず、雑巾を握ったまま頭を下げた。
午前八時五十五分。
誰かが合図をしたわけでもないのに、社員たちが一斉に立ち上がった。
社長の大河内が入ってきたのである。
五十代半ば。
よく日に焼けた顔と、厚みのある肩を持っていた。灰色の空を背にしていても、大河内だけは南国から帰ってきたように見えた。
「おはようございます!」
社員たちの声が重なった。
わずかに遅れて、直人も声を出した。
朝礼では、前日の契約件数と売上金額が読み上げられた。
一位の社員が前へ出ると、全員が拍手をした。
拍手は長かった。
大河内が手を下ろすまで、誰もやめなかった。
続いて、成績表の一番下に名前があった坂口が呼ばれた。
先ほどまで床を拭いていた社員である。
坂口は、社員たちの前に立った。
「昨日、何軒回った」
大河内が訊いた。
「二十八軒です」
「ノルマは」
「四十軒です」
「十二軒足りないな」
「はい」
「なぜだ」
坂口は少し迷った。
窓の外で風が鳴った。
「午後から雨が強くなって、移動に時間がかかりました」
事務所の空気が変わった。
誰かが息を止めたように静かになった。
大河内は坂口を見たまま、ゆっくりと訊いた。
「雨が降ると、家はなくなるのか」
「いえ」
「客は消えるのか」
「消えません」
「雨が降ると、住宅ローンも止まるのか」
「いえ」
大河内は机をたたいた。
乾いた音が事務所に響いた。
「なら、なぜ回らない」
「申し訳ありませんでした」
「聞こえない」
「申し訳ありませんでした!」
坂口の声が裏返った。
大河内は社員たちを見回した。
「いいか。ノルマは努力目標じゃない。会社との約束だ」
直人は、無意識に背筋を伸ばした。
「雨でも雪でも台風でも、物件はそこにある。お客様も生活している。天気を言い訳にする営業は、客にも会社にも必要ない」
大河内の言葉には、妙な力があった。
乱暴ではあるが、間違ってはいないようにも聞こえる。
実際、そのときの直人は感心していた。
営業とは厳しい仕事なのだ。
だからこそ、成果を出した人間は一千万円を稼げるのだろう。
人は、自分の選択を間違いだったと思いたくない。
そのためなら、目の前にある不自然さを、厳しさや成長という言葉に置き換えることができる。
朝礼の終わりに、大河内が直人を紹介した。
「今日から入った真壁君だ。三十六歳。前の会社では十一年勤めたそうだ」
社員たちの視線が集まった。
直人は頭を下げた。
「一日も早く戦力になれるよう頑張ります」
大河内は笑った。
「一日も早く、じゃない。今日からだ」
数人の社員が笑った。
直人も笑った。
冗談として受け取るのが、この場では正しいように思えた。
午前九時十分。
直人の机に、電話と顧客名簿が置かれた。
「午前中で百五十件、電話してください」
神谷が言った。
「研修は?」
「電話が研修です」
「物件の説明も、まだ何も教わっていませんが」
「説明を聞いてから動く人より、動きながら覚える人のほうが伸びます」
神谷は顧客名簿を開いた。
氏名、住所、電話番号、年齢、家族構成。
何年も前に作成されたらしく、すでに使われていない番号も混じっていた。
「午後は外回りです。二十軒お願いします」
直人は窓の外を見た。
雨は朝よりも強くなっている。
「今日も行くんですか」
神谷は一瞬、直人の顔を見た。
その目には怒りも驚きもなかった。
ただ、この男は何を言っているのだろう、という色があった。
「真壁さん」
「はい」
「天気とノルマに、何か関係がありますか」
午前中、直人は電話をかけ続けた。
一件目は、名乗っている途中で切られた。
二件目は、亡くなった人の名前だった。
三件目では、二度とかけてくるなと怒鳴られた。
十五件目を終えたころ、受話器を持つ手が重くなった。
三十件を超えると、断られても何も感じなくなった。
五十件を超えるころには、相手が人ではなく、件数に見え始めた。
昼の十二時になっても、誰も席を立たなかった。
直人が周囲を見回していると、神谷が言った。
「昼は電話しながら取ってください。その時間なら在宅している人もいます」
直人は妻が持たせてくれた弁当を開いた。
片手で卵焼きを口に運び、もう片方の手で番号を押した。
午後一時、直人は神谷と会社を出た。
雨は横殴りになっていた。
傘を差しても肩が濡れ、数分で革靴の中に水が入った。
直人は住宅街を歩き、一軒ずつインターホンを押した。
「不動産のご案内で――」
そこまで言う前に切られた。
別の家では、年配の男が玄関を少しだけ開けた。
「この雨の中、何をやってるんだ」
直人は答えに困った。
神谷が横から口を挟んだ。
「お客様に良い物件をご案内するのが、私どもの仕事です」
男は神谷を見た。
「良い会社なら、こんな日に社員を歩かせないだろう」
玄関の扉が閉まった。
直人は、なぜか自分が侮辱されたような気がした。
「気にしなくていいです」
歩きながら、神谷が言った。
「ああいう人は、何を言っても買いませんから」
十五軒目を回ったころ、直人のスマートフォンが振動した。
〈大雨警報が発表されました〉
続いて、鉄道会社から運転見合わせの可能性を知らせる通知が届いた。
神谷のスマートフォンも鳴った。
しかし、神谷は画面を確認すると、すぐポケットへ戻した。
「あと五軒です」
「警報が出ていますけど」
直人が言うと、神谷は歩みを止めた。
「警報は、営業停止命令じゃありません」
声は穏やかだった。
「ノルマを達成しないで戻ったら、朝の坂口みたいになりますよ」
それが冗談なのか警告なのか、直人には分からなかった。
十九軒目は、古い二階建ての家だった。
何度かインターホンを押すと、白髪の女性が出た。
「投資用マンションのご案内です」
直人が覚えたばかりの言葉を並べると、女性は困ったように笑った。
「息子から、不動産の話は一人で決めるなと言われているの」
「お話だけでも」
「ごめんなさいね」
女性は扉を閉めかけた。
そのとき、神谷が足を一歩前へ出した。
「奥様、将来の年金に不安はありませんか」
女性の手が止まった。
神谷は笑顔で続けた。
「皆さん、最初はそうおっしゃいます。でも、話を聞かなかったことで損をする方も多いんです」
女性は少し迷った後、玄関の扉を開けた。
その顔を見て、直人は小さな違和感を覚えた。
だが、初日から教育係へ意見を言うほどの確信はなかった。
この女性は、後に直人の人生を大きく変えることになる。
二十軒を回り終え、会社へ戻ったのは午後七時を過ぎていた。
直人のスーツは重く、靴下は完全に濡れていた。
妻が持たせた替えの靴下を思い出したが、履き替える場所も時間もなかった。
事務所では、朝礼で叱られていた坂口が、まだ電話をかけていた。
声はかすれていた。
壁の成績表を見ると、坂口の名前の横に赤い数字で「不足十二」と書かれていた。
その隣。
朝には不自然な空白だった場所に、細い黒い線が残っている。
直人は神谷に訊いた。
「ここ、誰かの名前があったんですか」
神谷は成績表を見た。
ほんの一瞬だけ、表情が止まった。
「辞めた人です」
「最近ですか」
「真壁さんには関係ありません」
それ以上、訊ける雰囲気ではなかった。
午後九時十五分。
神谷が直人の机へ来た。
「初日ですから、今日は帰っていいですよ」
今日は。
その言葉だけが耳に残った。
会社を出ると、雨は弱まっていた。
スマートフォンには、妻からメッセージが届いていた。
〈初日どうだった? 会社の人たち、優しそう?〉
直人は濡れた画面を指で拭いた。
朝礼で頭を下げていた坂口。
警報を無視して歩き続けた神谷。
玄関の扉を開けた白髪の女性。
成績表から消された社員の名前。
それらを思い出した。
だが直人は、こう返信した。
〈厳しいけど、ちゃんと頑張れば評価されそうだ〉
嘘を書いたつもりはなかった。
直人は、そう信じたかったのである。
送信した直後、背後の事務所から大河内の怒鳴り声が響いた。
「ノルマをこなすまで帰るな!」
直人は振り返らなかった。
営業会社なら、これくらい普通だ。
結果を出した者が評価される。
自分はもう、前の会社のように、何者にもなれないまま終わりたくない。
駅へ向かおうとしたとき、会社の通用口の脇に、一本の傘が落ちているのが目に入った。
骨が折れ、布が裏返った、透明なビニール傘だった。
持ち手には、白いテープが巻かれている。
そこには、黒い文字で名字が書かれていた。
――棚橋。
成績表から消された名前だった。
直人が傘を拾おうとすると、三階の窓が開いた。
神谷がこちらを見下ろしていた。
「真壁さん」
雨音の中でも、その声ははっきり聞こえた。
「それ、触らなくていいです」
窓はすぐに閉じられた。
直人は傘を地面へ戻した。
翌朝、傘は消えていた。
そして成績表の空白には、直人の名前が書き加えられていた。
最下位の欄に。
赤い線を引かれて。
次回:第2章「消えた営業マン」
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