週刊TAKAPI連載小説『辞めない男』第2章。36歳で不動産会社へ転職した真壁直人は、営業成績表から名前を消された元社員・棚橋の痕跡を見つける。会社が「退職した」と説明する男は、なぜ顧客へ警告を残していたのか。
第二章 消えた営業マン
東央リアルエステートには、社員が辞めたときの決まりがあった。
送別会をしない。
退職理由を尋ねない。
そして翌朝までに、その者の名前を営業成績表から消す。
人が会社を去るとき、普通ならば多少の痕跡が残る。机の引き出しから忘れ物が見つかり、しばらくは内線表にも名前が残る。昼休みになれば、誰かが昔話をすることもある。
しかし、この会社では違った。
辞めた者は、初めから存在しなかった者として扱われた。
真壁直人が入社して二日目の朝、成績表の最下位には、直人の名前が書かれていた。
〈真壁直人 契約〇件〉
その横には赤い線が引かれている。
まだ一日しか働いていない新入社員を、契約件数で最下位に置くことに、どれほどの意味があるのか。
直人には分からなかった。
だが、その赤い線を見ると、不思議な焦りが生まれた。
昨日まで、自分はこの会社に存在しなかった。
今日からは、最下位の社員として存在している。
名がないよりは、ましなのかもしれない。
直人は、そのように考えた。
午前八時五十五分。
社員たちが立ち上がり、社長の大河内が入ってきた。
朝礼では、前日の電話件数と訪問件数が報告された。
直人は電話百四十七件、訪問二十件。
午前中のノルマは百五十件だったため、三件足りなかった。
営業主任の神谷が数字を読み上げる。
「真壁、架電百四十七。訪問二十。アポイント、ゼロ」
大河内が直人を見た。
「初日だから仕方ない、と思っているか」
「いえ」
「なら、なぜ三件足りない」
直人は答えに詰まった。
昼食を取りながら電話をかけ、午後は雨の中を歩いた。会社へ戻ってからも、午後九時すぎまで受話器を握った。
自分なりには、やったつもりでいた。
しかし、「やったつもりです」と言えば、坂口のように全員の前で叱られる気がした。
「時間の使い方が悪かったと思います」
直人は答えた。
大河内は、わずかにうなずいた。
「そうだ。数字が足りないのは、能力が足りないんじゃない。覚悟が足りないんだ」
社員たちが一斉に手帳へ書き込んだ。
直人も慌ててペンを取った。
〈数字が足りないのは、覚悟が足りない〉
書いてみると、立派な言葉のように見えた。
朝礼が終わると、神谷が直人の机へ顧客名簿を置いた。
「昨日より五十件増やします」
「二百件ですか」
「昨日できなかった分もありますから」
直人は名簿を開いた。
昨日電話をかけた相手には、赤い印がついている。
その中に、一枚だけ筆跡の異なる紙が混じっていた。
字は細く、几帳面だった。
顧客の反応が詳しく書かれている。
〈夫死亡。長男は県外。判断を急がせないこと〉
〈年金生活。投資用物件の提案は慎重に〉
〈本人は断っている。再訪禁止〉
他の名簿には、「見込みあり」「押せばいける」「資産あり」といった短い言葉しか書かれていなかった。
その紙だけが、この会社のものではないように見えた。
右下に、小さく署名があった。
棚橋。
昨日、会社の通用口に落ちていた傘と同じ名字である。
直人は神谷に訊いた。
「この棚橋さんという人、いつ辞めたんですか」
神谷はパソコンの画面を見たまま答えた。
「先月です」
「急に?」
「会社を辞める人は、たいてい急ですよ」
「退職の挨拶もなかったんですか」
神谷の指が止まった。
「真壁さん」
「はい」
「他人が辞めた理由を考える時間があるなら、一本でも多く電話してください」
言葉は穏やかだったが、それ以上訊くなという意味であることは分かった。
直人は受話器を取った。
午前中だけで、百六十二件の電話をかけた。
昨日よりも速くなっていた。
断られても、すぐ次の番号を押せるようになった。
相手が怒っていても、その声を最後まで聞かなくなった。
電話を切る。
数字を一つ増やす。
また電話をかける。
この仕事には、考えないほうが楽なことが多かった。
昼前、坂口が隣の机から小声で言った。
「棚橋さんのこと、聞いたんですか」
直人は受話器を置いた。
「知ってるのか」
坂口は周囲を見回した。
神谷は席を外していた。
「僕の教育係だったんです」
「どんな人だった」
「変わった人でした」
坂口は少し考えた。
「この会社では、ですけど」
「どう変わっていた」
「お客さんが断ったら、本当に電話をやめる人でした」
直人は意味が分からなかった。
「それが普通じゃないのか」
坂口は笑わなかった。
「ここでは、断られてからが営業だと言われます」
机の向こうで電話が鳴った。
誰も取らなかった。
坂口は声をさらに落とした。
「棚橋さん、最後のころは、会社と揉めていました」
「何で?」
「売るなって言ったんです」
「何を」
坂口が答えようとしたとき、背後から神谷の声がした。
「坂口」
坂口の肩が跳ねた。
神谷は二人の間に立った。
「電話、止まってるぞ」
「すみません」
「昨日の不足分、まだ残っているよな」
「はい」
「真壁さんの邪魔をするな」
坂口はすぐに受話器を取った。
神谷は直人の机に置かれた紙を見た。
棚橋の署名がある顧客名簿だった。
「これは使わなくていいです」
神谷は紙を持ち上げた。
「でも、まだ電話していない番号が――」
「古い情報です」
神谷は紙を二つに折った。
さらにもう一度折り、ゴミ箱へ捨てた。
直人は、その動作を見ていた。
古い情報を処分しただけだと言われれば、それまでだった。
しかし神谷は、紙に書かれた顧客の名前を確認していなかった。
署名を見ただけで捨てたのである。
午後、直人は一人で外回りへ出た。
神谷は別の社員と契約へ向かい、直人には住宅地の地図が渡された。
「三十軒です」
「昨日は二十軒でしたけど」
「今日からは新人ではありません」
入社二日目で新人ではなくなる会社が、世の中にどれほどあるのか。
直人は訊かなかった。
天気は回復していたが、道路には昨日の雨が残っていた。
側溝から水があふれ、ところどころに折れた傘が捨てられている。
一軒ずつインターホンを押した。
断られた家には赤い印をつける。
反応があった家には丸をつける。
神谷から渡された地図には、すでにいくつもの書き込みがあった。
その中に、一軒だけ青い丸で囲まれた家がある。
昨日、白髪の女性が出てきた家だった。
地図の横には、神谷の字でこう書かれていた。
〈年金・持ち家・長男別居。押せる〉
直人は玄関の前で立ち止まった。
昨日、女性は「息子から一人で決めるなと言われている」と話していた。
それでも神谷は、将来の年金への不安を口にし、扉を開けさせた。
営業とは、相手が気づいていない需要を見つける仕事なのだ。
直人は、そう理解しようとした。
インターホンを押すと、白髪の女性が出た。
「あら、昨日の方」
「昨日は雨の中、失礼しました」
「大変ねえ。あんな天気でも仕事なの?」
女性は心配そうに直人を見た。
直人は少し迷い、会社で教えられたとおりに答えた。
「お客様の大切な資産に関わる仕事ですから、天気は関係ありません」
口にしてみると、大河内の言葉よりも立派に聞こえた。
女性は直人を家の中へ招いた。
居間には、亡くなった夫の写真が飾られていた。
棚の上には薬の袋がいくつも置かれている。
「昨日の若い方がね、老後のためになるって」
「神谷主任ですね」
「今度、詳しい人を連れてくると言っていたわ」
直人はテーブルの上に置かれた資料を見た。
自社が販売する投資用マンションのパンフレットだった。
価格は三千六百万円。
女性が一人で契約するには、決して小さな金額ではない。
「息子さんにはお話しされましたか」
直人が訊くと、女性は首を振った。
「反対するから、契約してから話したほうがいいって」
「誰が言ったんですか」
「昨日の方よ」
直人の胸に、昨日と同じ小さな違和感が生まれた。
神谷は、そこまで言っていなかったはずだ。
少なくとも直人の前では。
女性はパンフレットを閉じた。
「でもね、前にも同じ会社の方が来たことがあるの」
「うちの社員ですか」
「ええ。あなたより少し若い方だったかしら」
女性は記憶をたどるように目を細めた。
「その人は、買わないほうがいいと言ったのよ」
直人は黙った。
「会社の人なのに、おかしいでしょう」
女性は笑った。
「名刺、まだどこかにあったと思うけど」
女性は隣の部屋へ入り、引き出しを探し始めた。
直人は、テーブルの上の資料を見つめた。
投資用マンション。
年金生活。
長男は県外。
一人で決めるなと言われている。
昼前に見た棚橋の顧客名簿を思い出した。
〈夫死亡。長男は県外。判断を急がせないこと〉
女性が戻ってきた。
手には、一枚の名刺があった。
水に濡れたのか、端が波打っている。
表には、東央リアルエステートの社名が印刷されていた。
営業部。
棚橋聡。
「この人ですか」
直人が訊いた。
「そうそう。棚橋さん」
女性は名刺を見ながら言った。
「ずいぶん謝っていたわ」
「謝っていた?」
「自分が最初にこの話を持ってきたけれど、やっぱり私には必要ないって」
直人は名刺を受け取った。
裏面には、手書きの電話番号があった。
会社の番号ではない。
携帯電話の番号らしかった。
その下に短い文章が書かれている。
〈契約書に印を押す前に、必ず息子さんへ連絡してください〉
直人は名刺を見つめた。
会社と揉めていた。
売るなと言った。
突然辞めた。
成績表から名前を消された。
折れた傘だけが残されていた。
それらが一つの線でつながりそうになった。
「その名刺、お借りしてもいいですか」
直人が訊くと、女性はうなずいた。
会社へ戻ったのは午後六時半だった。
三十軒のノルマは達成していた。
アポイントは一件。
白髪の女性である。
神谷は報告書を見ると、満足そうに言った。
「やりましたね」
「でも、ご家族に相談したほうがいいと思います」
神谷の表情が変わった。
「なぜですか」
「息子さんが反対しているそうです」
「反対しているんじゃない。まだ理解していないだけです」
「本人も迷っています」
「迷っているから、決める手助けをするんです。それが営業でしょう」
神谷は報告書のアポイント欄に赤い丸をつけた。
「明日、黒崎部長と契約の説明に行きます」
「明日ですか」
「善は急げです」
直人はポケットの中の名刺を意識した。
棚橋が残した名刺。
それを神谷に見せるべきか迷った。
だが、名刺を見せれば、白髪の女性が棚橋と話していたことも伝わる。
そして名刺は、顧客から回収されるかもしれない。
直人は何も言わなかった。
午後九時。
社員の多くがまだ電話をかけていた。
坂口は向かいの机で、声をかすらせながら営業トークを続けている。
直人はトイレへ行くふりをして、非常階段へ出た。
外は再び雨が降り始めていた。
ポケットから棚橋の名刺を取り出す。
裏面の電話番号をスマートフォンへ入力した。
発信ボタンを押す前に、指が止まった。
退職した社員へ電話をかけるだけである。
悪いことではない。
それでも、誰かに見られている気がした。
直人は周囲を確認し、発信した。
一度目の呼び出し音。
二度目。
三度目。
番号は、まだ使われていた。
四度目の途中で、電話がつながった。
直人は息を止めた。
「もしもし」
返事はなかった。
雨の音だけが聞こえる。
「棚橋さんですか」
しばらくして、低い声がした。
「誰だ」
「東央リアルエステートに入った真壁といいます」
電話の向こうで何かが動く音がした。
「どうして、この番号を知ってる」
「お客さんから名刺を見せてもらいました。年金で暮らしている女性です。投資用マンションの――」
「契約させるな」
棚橋は、直人の言葉を遮った。
その声には、怒りよりも恐怖があった。
「明日、会社の人間が説明に行くことになっています」
「絶対に行かせるな」
「どういうことですか」
「その物件は――」
突然、非常階段の扉が開いた。
直人は振り返った。
神谷が立っていた。
電話の向こうで棚橋が何かを言っている。
しかし直人には、もう聞き取れなかった。
神谷は直人の手元を見た。
「誰と話しているんですか」
直人は反射的に通話を切った。
「妻です」
「奥さんに、棚橋さんと呼びかけるんですか」
直人は答えられなかった。
神谷はゆっくり近づいた。
いつもの無表情な顔だった。
「真壁さん」
「はい」
「この会社で長く働きたいなら、一つだけ覚えておいてください」
神谷は、直人が握っているスマートフォンを見た。
「消えた人間を、わざわざ探さないことです」
神谷はそれだけ言い、事務所へ戻った。
非常階段には、直人だけが残された。
スマートフォンの画面には、通話時間が表示されている。
三十八秒。
その下に、見知らぬ番号からメッセージが届いた。
棚橋からだった。
〈明日の契約を止めろ〉
続いて、もう一通届いた。
〈あの会社は、客を選んでいるんじゃない〉
直人が画面を見つめていると、三通目が表示された。
〈逃げられない人間を選んでいる〉
その夜、直人は初めて、自分が入社した会社の求人広告をもう一度開いた。
〈年齢・学歴不問〉
〈未経験歓迎〉
〈人生を変えたい方を応援します〉
以前は希望に見えた言葉が、別の意味を持っているように感じられた。
会社は、自分の可能性を見つけてくれたのだと思っていた。
だが、もしかすると――。
東央リアルエステートが選んでいたのは、客だけではなかったのかもしれない。
翌朝、大型台風の接近が発表された。
鉄道各社は、夕方からの計画運休を検討していた。
自治体は、不要不急の外出を控えるよう呼びかけた。
午前八時五十五分。
いつもどおり朝礼が始まった。
大河内は社員たちを見回し、言った。
「今日は絶好の営業日だ」
誰も驚かなかった。
「こんな日は、客が家にいる」
直人の机の上には、白髪の女性の契約書が置かれていた。
すでに、印鑑を押す場所に付箋が貼られている。
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