愛知県豊橋市で生まれ、戦時中に豊川海軍工廠へ学徒動員された伊藤和子さん(95)が、81年前の空襲を生き延びた記憶と、次の世代への平和への願いを語っています。
伊藤さんは1944年、12歳で豊橋市立高等女学校に入学しました。しかし、学校生活を送れた期間はわずかで、その年のうちに豊川市の軍需工場「豊川海軍工廠」へ学徒動員されました。工廠では武器製造に関わる作業に従事していたといいます。
2026年8月6日には、同校の歴史を受け継ぐ愛知県立豊橋東高校で「世界平和祈念式典」が開かれ、全校生徒や卒業生らが豊川海軍工廠空襲などで犠牲となった人たちを追悼しました。
12歳で豊橋高女へ 憧れた学校生活はわずかな期間
伊藤さんは豊橋市で銭湯を営む家庭に生まれました。
1944年、12歳で豊橋市立高等女学校に進学。当時の女学生が憧れたというセーラー服での学校生活が始まりましたが、戦況が厳しくなる中、間もなく豊川海軍工廠へ動員されました。
豊川海軍工廠は、航空機や艦船などに搭載する機銃や弾薬などを製造していた大規模な軍需工場でした。
伊藤さんは、もんぺ姿で工廠に通い、火薬を詰める工程に使う部品を磨く作業などを担当していたと振り返っています。当時は日本が勝つと信じ、自分たちが作る兵器が役に立つと思いながら働いていたといいます。
本来であれば授業を受け、友人と学校生活を送る年代でしたが、その日常は戦争によって大きく変えられていました。
1945年8月7日、豊川海軍工廠を空襲 2500人以上犠牲
1945年8月7日、豊川海軍工廠は米軍による大規模な空襲を受けました。
豊橋東高校同窓会「ひがし会」の記録によると、B29爆撃機124機とP51戦闘機45機が来襲し、午前10時13分から約26分間に500ポンド爆弾3256発が投下されました。2500人以上が死亡したとされています。
犠牲者には工廠で働く人々だけでなく、学徒動員された生徒や女子挺身隊員なども含まれていました。
豊橋市立高等女学校では生徒34人、卒業生13人、教員1人の計48人が死亡。豊橋第二中学校では生徒25人と教員1人の計26人が死亡し、両校を合わせた犠牲者は74人に上ります。
爆撃の中を北門へ 防空壕で友人失う
空襲当時、伊藤さんは爆音が近づくたびに防空壕へ身を隠しながら、工廠の北門方向へ逃げました。
伊藤さんは、南門や西門方面では多くの人が犠牲になったと振り返り、自身が北門方向へ逃げたことが生死を分けたと受け止めています。
逃げる途中に入った防空壕でも惨事を経験しました。
防空壕には10人ほどが避難していましたが、脱出する際に建物が倒壊し、友人が下敷きになったといいます。伊藤さんは、がれきの下で友人の手が動いていた光景が今も記憶から離れないと語っています。
空襲から8日後の1945年8月15日、日本は終戦を迎えました。
豊橋東高校で世界平和祈念式典 81年前の犠牲者悼む
2026年8月6日、豊橋東高校では世界平和祈念式典が開かれました。
同校の前身にあたる豊橋市立高等女学校と豊橋第二中学校は、豊川海軍工廠への学徒動員や豊橋空襲などで多くの生徒や教員を失っています。
式典では犠牲者に黙とうをささげたほか、生徒会長が「平和は多くの犠牲や努力により成り立っている」との趣旨で、歴史を風化させず平和な社会をつくるために行動していく決意を示しました。
学校中庭には1995年に建立された平和祈念碑「若葉の祈り(同じ空)」があります。現在、碑のプレートには戦争で犠牲となった103人の氏名が刻まれています。
この103人には、豊川海軍工廠空襲だけでなく、学徒動員先で東南海地震により亡くなった生徒や、豊橋空襲の犠牲者も含まれています。
95歳の伊藤さん「勉強ができるのは幸せ」
81年前、自らも学生でありながら、学校ではなく軍需工場で働いた伊藤さん。
現在の豊橋東高校で学ぶ生徒たちを見て、
「こうして落ち着いて勉強ができるのは幸せ」
と語りました。
平和な環境で学び、成長してほしいとの願いも寄せています。
また、今後についても、体調が許す限り式典への参加を続けたいとの考えを示しています。
戦争体験を直接聞ける機会は少なく
豊川海軍工廠空襲から2026年で81年となりました。
豊橋東高校では、前身校の生徒らが戦争で犠牲になった歴史を継承するため、平和祈念の取り組みを続けています。同校は、豊川海軍工廠空襲で多くの動員学徒が死亡した歴史を「決して忘れてはならない痛恨の歴史」と位置づけています。
伊藤さんの体験は、戦争が戦場だけで起きていたのではなく、学校で学ぶはずだった12歳の少女の日常にも直接入り込み、人生を変えていったことを伝えています。
編集部まとめ
豊川海軍工廠空襲では2500人以上が犠牲となり、豊橋市立高等女学校と豊橋第二中学校だけでも74人が死亡しました。
数字として残る被害の背景には、伊藤さんのように学校生活を断たれ、10代前半から軍需工場で働いた一人ひとりの人生がありました。
95歳となった伊藤さんが現在の高校生に伝えた「勉強ができるのは幸せ」という言葉は、戦争の記憶と、平穏な日常を次世代へつなぐ意味を端的に示しています。
戦争体験者から直接証言を聞ける機会が限られていく中、地域に残された記録や証言を継承していく重要性は、さらに高まっています。
週刊TAKAPI編集部/松本
特記事項
本記事は、2026年8月11日までに公表された報道、愛知県立豊橋東高校、同校同窓会「ひがし会」が公開している記録を照合して構成しています。空襲に関する犠牲者数や爆撃規模は、資料によって表現や集計範囲が異なる場合があるため、本文では「ひがし会」が示す記録を基準としました。
情報提供募集
各種ご相談、情報提供、現地写真・動画、関係者からの証言などをお持ちの方は、メール(info@108takapi.jp)、各種SNSのDM、または公式LINEまでお寄せください。週刊TAKAPI編集部が内容を確認のうえ、取材・報道の参考とさせていただきます。
サイト訪問者数

コメント
0件まだコメントはありません。最初のコメントを投稿してみませんか。