人には偉そうに講釈を垂れておきながら、自分は違法薬物に手を出すのか
溝口勇児氏(41)がXに記したこの一文は、容赦がない。
だが、今回の一件を見れば、そう言いたくなる気持ちは分からなくもない。
有名キャバクラ嬢でインフルエンサー「ヤマトリノ」として活動する会社役員・田沢梨乃容疑者(27)が、コカインを所持したなどとして麻薬取締法違反の疑いで逮捕された。
報道によれば、田沢容疑者は交際相手の会社役員とともに現行犯逮捕され、「2人のもので一緒に使っていた」などと容疑を認めているという。
そして、わずか約2カ月前。
田沢容疑者はYouTubeで溝口氏と向き合い、彼の言動や仕事の進め方について、かなり厳しい意見をぶつけていた。
人には厳しい。
その本人が今度は、違法薬物をめぐる事件の容疑者になった。
この落差は大きい。
ところが、話はそこで終わらない。
溝口氏はこう続けた。
「だからリノさんとあの公園で膝を突き合わせて本気で説教して泣かさないといけないかなって」
ここで、もう一つの問題が顔を出す。
違法薬物を批判することと、「俺が説教して泣かす」と公言することは、まったく別の話ではないか。
他人には講釈、自分はコカイン容疑――ヤマトリノに返ってきた言葉
まず田沢容疑者については、厳しく問われて当然だろう。
他人の生き方や言動について強い言葉を発する人間は、それだけ自分自身の行動との整合性を見られる。
これは有名人に限った話ではない。
他人に「こうあるべきだ」と言う以上、自分がその言葉から自由でいられるはずもない。
もちろん、逮捕されたことと有罪が確定することは同じではない。今後の捜査、司法手続きを待つ必要がある。
だが、報道されている供述の通り、違法薬物を所持し使用していたのであれば、これまで他人に向けてきた厳しい言葉は当然、自分自身にも返ってくる。
しかも相手は、つい最近まで自分が厳しく批判していた溝口氏だった。
「人には講釈を垂れて、自分は何をやっているんだ」
そう言われるのは、ある意味で自ら招いた結果でもある。
だから、溝口氏が怒ること自体に大きな違和感はない。
私が引っかかったのは、その後の「泣かす」である。
「俺が泣かす」――正論は、そこで別のものになる
違法薬物に手を出すな。
周囲に迷惑をかけるな。
人に偉そうなことを言うなら、自分の行動にも責任を持て。
ここまでは、何もおかしくない。
むしろ正論だろう。
だが、
「俺が説教して泣かす」
となれば話は違う。
なぜ、泣かせなければならないのか。
田沢容疑者が泣けば、コカインの問題が解決するわけではない。
泣けば反省したことになるわけでもない。
泣かせた人間が正しかったと証明されるわけでもない。
何より奇妙なのは、それを本人と会う前にXで宣言していることである。
本当に本人へ伝えたい言葉なら、本人に言えばいい。
「二度とやるな」
「自分のしたことに向き合え」
「周囲にどれだけ迷惑をかけたか考えろ」
いくらでもある。
そこに「泣かす」という言葉を足した瞬間、説教の目的が少し変わって見える。
相手に何を伝えるかではなく、
「俺が相手を泣かせる」
という、説教する側の姿が前へ出てくるからだ。
本当に相手のためなら、「泣かす」と予告する必要があるのか
溝口氏が田沢容疑者を本気で心配している可能性は十分にある。
怒りも失望も本物なのだろう。
二人の関係を考えれば、他人には分からない感情もあるはずだ。
だから、溝口氏の内心を勝手に決めつけるべきではない。
それでも、本人が公に発した言葉は批評できる。
そこで問いたい。
相手のための説教なら、なぜ「泣かす」ことまで世間に予告する必要があるのか。
ここは小さくない。
人間は、自分が「正しい側」に立ったとき、驚くほど強い言葉を使える。
今回、違法薬物を批判するという一点では、溝口氏には圧倒的な正当性がある。
だからこそ危うい。
行為を批判する正当性があることと、相手に対してどんな言葉を使ってもいいことは別だからだ。
「お前がやったことは間違っている」
と、
「俺がお前を泣かす」
の間には、確かに一本の線がある。
7月はヤマトリノ、9月は溝口氏――結局、二人とも「説教する側」に立った
今回の出来事が妙なのは、二人の立場が見事なまでに入れ替わったことである。
7月。
田沢容疑者が溝口氏に厳しい言葉を向けた。
9月。
今度は溝口氏が田沢容疑者を「説教して泣かす」と言う。
表面的には完全な立場逆転である。
だが、一歩引いて見ると、二人はそれほど違う場所に立っていない。
どちらも、
「自分が相手を正す側」
に立っている。
もちろん、二人が問われている問題の重さは同じではない。
田沢容疑者は薬物をめぐる刑事事件の容疑者である。
溝口氏について論じているのは、あくまで本人が公にした発言についてだ。
ここを混同してはいけない。
しかし、他人に強い言葉を投げる人間ほど、自分自身の言葉と行動も見られる。
そのことを、田沢容疑者自身が今回、皮肉な形で示してしまった。
そして、その田沢容疑者に「俺が説教して泣かす」と言った溝口氏もまた、その原則の外側にはいない。
薬物問題に「説教王」はいらない
そもそも今回の問題に、説教の勝者を決める必要などない。
田沢容疑者については、捜査と司法手続きが進む。
薬物使用の問題があるのであれば、必要に応じて医療や専門的な支援につながるという話も出てくる。
周囲の人間が本人と向き合うこともあるだろう。
そこで必要なのは、「誰が一番強く叱れるか」ではない。
まして、
「泣かせたから反省した」
などという単純な話でもない。
薬物の問題は、そんな昭和の青春ドラマのような説教一発で片付くものではない。
そして田沢容疑者側も、「今回は自分が怒られる番だった」で終わらせてはいけない。
問われているのは、もっと重い。
これまで他人へ向けてきた厳しい言葉を、自分自身にも向けられるのか。
そのうえで、自分がしたこととどう向き合うのか。
そこだろう。
他人を裁く言葉は、いつか自分にも返ってくる
田沢容疑者が過去に溝口氏へ厳しいことを言ったからといって、その発言のすべてが今回の逮捕によって間違いになるわけではない。
逆も同じだ。
田沢容疑者が逮捕されたからといって、溝口氏の言葉がすべて正しくなるわけでもない。
人間関係は、そんな単純な勝ち負けではない。
今回、田沢容疑者には、自分自身の行動と向き合う責任がある。
人に厳しいことを言ってきたのなら、自分にはもっと厳しくなければ筋が通らない。
一方、溝口氏にも問いたい。
違法薬物を批判することと、「俺が泣かす」と世間に宣言することは、本当に同じなのか。
説教する側に立ったときほど、自分の言葉を疑う必要はないのか。
二人を見ていると、一つだけ妙に共通するものがある。
他人を正そうとする言葉は強い。
だが、その言葉が最も厳しく向けられるべき相手は、本来、自分自身なのではないか。
ヤマトリノにも。
溝口勇児氏にも。
他人に説教する前に、まず自分を問う。
今回の一件に必要なのは、「どちらが説教する側か」というくだらない勝負ではなく、その当たり前のことなのだと思う。
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