「ドロボウ」
さらに捜査初期には、無視できない証言が複数あった。
現場から約100メートル離れた消防署の分遣所。
午前0時すぎ、2階の宿直室にいた消防士が、女性が「ドロボウ」と叫ぶ声を聞いたという。
別の消防士も男の声や、「バタンバタン」という車のドアが閉まるような音を耳にしたと証言していた。
午前1時30分から40分ごろには、近くの工場で深夜勤務をしていた工員が、現場付近から「パーン、バーン」という音を聞いた。
その前後、道路を北へ走り去る若い男を見たという。
そして、その直後に住宅から炎が上がった。
これらの証言がすべて犯人につながるとは限らない。
重要なのは、事件当初には複数の可能性が存在していたということだ。
ところが捜査は次第に、「被害者宅をよく知る人物」という方向へ収束していく。
なぜ21歳の店員が疑われたのか
愛知県警捜査一課と豊橋署の捜査本部が注目したのは、事件現場の状況だった。
夫が大阪万博へ出かけていることを犯人が知っていたのではないか。
家の内部を詳しく知っていたのではないか。
証拠を消すため火を放ったのではないか。
そうした見立てから、警察は一家の親族や取引先、店への出入り関係者を調べた。
その一人が、店で働いていた当時21歳の男性Mだった。
資料によると、Mは事件発生直後から重要参考人としてマークされた。
5月下旬には3日間連続で任意出頭を求められ、1日12時間を超える取り調べを受けたとされる。
それでもMは犯行を否定していた。
事件当夜は定時制高校で友人らとバスケットボールをした後、午後11時過ぎに下宿へ戻って寝た――。
それが当初の説明だった。
警察はその後もMへの聴取を続け、尾行も行った。
そして事件から106日目となる8月28日、Mは逮捕された。
ここで注目すべきなのは、逮捕された瞬間から犯行を認めていたわけではないことだ。
資料では、逮捕時点でもMは全面否認していた。
ところが翌29日、犯行を認める供述を始めたという。
わずか1日で供述は大きく変わった。
「自白」は一つではなかった
その後の供述を見ると、犯行動機も一定していない。
当初は、家庭の事情などでむしゃくしゃしていたところ、被害女性から注意され、腹を立てて殺害したという趣旨の説明をしていた。
ところが、その後には被害女性に好意を抱いており、言い寄ったところ抵抗されたため殺害したという内容へ変化している。
盗んだとされた金品の処分についても、供述は変わった。
紙幣を破り捨て、指輪などは奥三河の川に捨てた。
その後には下宿先のトイレへ捨てた。
しかし資料によれば、これらの被害品は発見されなかった。
供述が変わること自体が直ちに無実を意味するわけではない。
人間の記憶は一定ではなく、捜査が進むなかで供述が補充・訂正されることもある。
しかし、死刑が問題となる重大事件である以上、供述の変遷が客観的な証拠によって裏付けられているかは極めて重い意味を持つ。
豊橋事件では、その「裏付け」が後に大きな問題となった。
事件現場には別の血液型があった
Mの血液型はA型だった。
殺害された母親はO型。
ところが現場からは、B型の血液反応が出た物証が複数確認されていたと資料は伝えている。
もちろん、これだけで「B型の第三者が犯人だった」と断定することはできない。
被害者家族にもB型の人物がおり、火災現場という特殊な条件もあったとして、捜査側から反論がなされている。
だが問題は別のところにもあった。
Mを犯人とする捜査側の説明と、事件現場に残った客観的な痕跡との間には、簡単には埋められない隙間が存在していた。
事件を裁く法廷では、その隙間が徐々に広がっていく。
初公判でも犯行を認めた
豊橋事件が複雑なのは、Mが警察で自白しただけではない点にある。
起訴された後、最初の公判でも起訴内容を認めている。
一般には、警察署を出て裁判所の法廷でも犯行を認めたとなれば、「やはり自白は正しかったのではないか」と受け止められやすい。
しかしMは第2回公判から一転して無実を訴えた。
資料には、
「弁解してもわかってもらえない。宿命と思いあきらめていた」
と説明したと記録されている。
その後、弁護側はMが逮捕後、豊橋刑務支所へ移されるまで豊橋警察署内の留置施設に置かれていた点を問題視した。
警察・検察での供述だけでなく、初公判で犯行を認めたことや被害者側へ送った謝罪文についても、長期間警察の管理下に置かれていた影響を受けたもので、任意性に問題があると主張した。
ここに、この事件のもう一つの核心がある。
人は犯していない犯罪を「やった」と言うことがあるのか。
現在でこそ「虚偽自白」は冤罪事件を考える際の重要な論点として知られている。
だが豊橋事件では半世紀以上前、自白と客観証拠のどちらを信用するのかという問題が、死刑をめぐる裁判の中心に現れていた。
法廷に立った「捜査した側」の刑事
裁判はさらに異例の展開を見せる。
1973年12月。
事件当時、愛知県警捜査一課で捜査に携わった元警察官が、弁護側の証人として出廷した。
被告人を捜査した側の人物が、弁護側証人として法廷に立つ。
通常では考えにくい展開だった。
元捜査員は、Mを犯人とする重要な根拠とされていた事実に疑問を投げかけた。
例えばMの顔にあったという「ひっかき傷」。
元捜査員は、それは事件の数日前からあった「ブツブツ」であり、ひっかき傷ではなかったと証言した。
さらに、Mにアリバイがなかったとする同居人の証言についても、時間の記憶があいまいだったと述べた。
そして現場の衣類などに付着したB型の血液について、捜査本部の公式な場で聞いたことがなかったとも証言した。
これは単なる弁護側と検察側の見解の違いではない。
捜査機関の中にいた人物自身が、Mを犯人とする証拠の評価に疑問を呈したのである。
「犯人だ」という仮説から証拠を見ていなかったか
事件当初、捜査側には一つの仮説があった。
犯人は、夫が留守だと知っている。
家の内部を知っている。
被害者一家と関係がある。
この仮説自体は不合理ではない。
問題は、一度その仮説に合致する人物が現れた後である。
Mには明確なアリバイがない。
顔には傷がある。
家を知っている。
本人が自白した。
それらを積み重ねれば、一見すると一本の線になる。
だが後の裁判では、「傷」とされたものの評価が崩れ、「アリバイがない」という証言にも曖昧さが指摘され、現場にはMとは異なる血液型の痕跡があったことが問題になった。
Mの自白そのものも変遷していた。
一つずつの事実を見ると、捜査段階で描かれた「犯人像」は、当初考えられていたほど揺るぎないものではなかった。
豊橋事件が現在にも突きつけるのは、捜査でしばしば問題となる「仮説と証拠」の関係である。
証拠から犯人像を組み立てるのか。
それとも一度作った犯人像に、証拠を当てはめていくのか。
両者は似ているようで、まったく違う。
それでも検察は「死刑」を求めた
検察側は最後までMを犯人とする立場を変えなかった。
1974年2月6日、検察はMに死刑を求刑した。
一方の弁護側は無罪を主張。
現場に残された物証などを根拠として、別人による犯行の可能性を訴え、再捜査を要求した。
事件では母親だけでなく、わずか3歳と1歳の子どもが命を奪われている。
犯行が極めて重大であったことに疑いはない。
だからこそ、「誰がやったのか」という犯人性の判断には最大限の慎重さが求められる。
重大な事件だから厳しく処罰することと、重大な事件だから犯人認定を慎重に行うことは、矛盾しない。
むしろ表裏一体だ。
誤った人物を処罰すれば、被告人に取り返しのつかない結果をもたらすだけではない。
本当の犯人を取り逃がすことにもつながる。
裁判所が出した答えは「無罪」
1974年6月12日。
名古屋地裁豊橋支部は、Mに無罪を言い渡した。
資料によると、裁判所はMの自白の信用性を否定し、Mが犯人であることを証明する物的証拠もないと判断した。
検察側は控訴を検討した。
しかし控訴期限の6月26日、名古屋地検は控訴を断念する。
一審の判断を覆せる新たな証拠を得ることが困難だったためとされる。
無罪は確定した。
つまりMは、「証拠不足で裁判が止まった人物」ではない。
刑事裁判で無罪判決を受け、それが確定した人物である。
事件を振り返る際、この点は極めて重要だ。
一度逮捕され、自白し、起訴され、死刑まで求刑された。
それでも、その人物を「犯人」として扱うことはできない。
もう一つ残った被害
無罪確定によって、Mに対する刑事裁判は終わった。
しかし事件そのものは終わっていない。
母親と幼い兄弟を殺害した人物が別にいるのであれば、その人物は依然として社会のどこかにいたことになる。
愛知県警は無罪確定後も再捜査を行った。
それでも真犯人は逮捕されなかった。
そして1985年5月15日。
事件から15年が過ぎ、当時の法律に基づく公訴時効が成立した。
夫にとっては、自分が留守にしていた一夜に妻と子ども2人を失い、その犯人が刑事裁判によって確定されることのないまま時効を迎えたことになる。
Mにとっては21歳で逮捕され、殺人などで起訴され、死刑を求刑された後、4年近くを経て無罪となった。
二つを比較して、どちらの被害が重いと論じる事件ではない。
家族を奪われた被害と、無実の人物が犯人として裁かれる危険。
豊橋事件では、その双方が一つの事件の中に残った。
「自白がある」は事件の終点ではない
豊橋事件を56年後の2026年から読み直したとき、最も重い事実の一つは、Mが一度自白していたことである。
犯行を否定し続けた人物が無罪になった、という単純な事件ではない。
警察で犯行を認めた。
起訴された。
初公判でも認めた。
それでも最終的には無罪だった。
この事実は、自白という証拠が持つ危うさを端的に示している。
自白が存在する。
だから犯人である。
刑事事件は、それほど単純ではない。
本当にその人物しか知り得ない情報が含まれているのか。
供述は客観的な証拠と一致するのか。
供述内容は途中で変わっていないか。
取調べがどのような環境で行われたのか。
自白と矛盾する証拠が存在していないか。
豊橋事件の裁判は、そうした問いを突きつけた。
一方で、断定してはいけないこともある
豊橋事件についてインターネット上では、後年になって「真犯人につながる物証が隠されていた」などとする記述も見られる。
今回、週刊TAKAPIが基礎資料として確認した文書にも、B型の体液が付着した衣類が現場で見つかっていたなどとする記述がある。
ただし、その部分自体に「要出典」と明記されており、今回確認した資料だけでは事実として断定できない。
そのため本稿では、「警察が決定的証拠を意図的に隠した」との断定はしない。
事件を検証する記事である以上、冤罪を追及するために新たな断定を作ることも避けなければならない。
重要なのは、確認できる事実だけでも十分に重大だという点だ。
捜査員自身が法廷でM犯人説に疑問を示した。
Mとは異なる血液型の痕跡が争点となった。
供述は変遷した。
それでも死刑が求刑された。
そして裁判所は無罪とした。
そこまでは資料から確認できる。
残された最大の問い
豊橋事件には結局、二つの答えが出なかった。
一つは、
「なぜMは犯していないと主張する事件について、自白するに至ったのか」
もう一つは、
「では、母子3人を殺害したのは誰だったのか」
無罪判決によって最初の刑事裁判は終わった。
公訴時効によって捜査にも法的な終点が訪れた。
しかし、その二つの問いそのものが消えたわけではない。
1970年5月15日。
大阪万博に日本中が沸いていた時代、豊橋の住宅街で母親と幼い兄弟の命が奪われた。
21歳の店員は犯人として逮捕された。
自白した。
死刑を求められた。
だが無罪だった。
そして本当の犯人は、捕まらなかった。
豊橋事件を「昔の未解決事件」とだけ呼べば、この事件が残した最も重要な部分を見落とす。
犯罪を捜査するということ。
自白を証拠として扱うということ。
国家が一人の人間を犯人と認定し、刑罰を科すということ。
そして、その判断を誤ったときに何が起きるのか。
半世紀以上前の豊橋で起きた事件は、現在の刑事司法にも通じる問いを残したままである。
担当記者:成田
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