「いじめ」で済むのか 理由を知らされず転校した私の記憶

「いじめ」という言葉を聞くたび、私は引っかかりを覚える。

からかい、仲間外れ、嫌がらせ、悪ふざけ――。

学校や行政の発表では、相手を追い詰める行為が、しばしば「いじめ」という一つの言葉にまとめられる。

だが、その言葉だけで済ませていいのだろうか。

私は、いじめを背景に身内を亡くしている。

当時の私はまだ幼く、物心がつく前の出来事だった。記憶は途切れ途切れで、今もはっきりとは思い出せない。

家の中に重い空気が流れていたこと。

大人たちが、私に聞かせないように話していたこと。

そして、何が起きたのかを知らされないまま、突然転校することになったこと。

幼かった私は、理由を尋ねても詳しい説明を受けることはなく、ただ言われるまま新しい学校へ通った。

本人が亡くなっても、いじめは終わらない

成長してから、私は少しずつ事情を知った。

身内が学校で苦しんでいたこと。その出来事によって、本人だけでなく、残された家族の生活や人間関係まで大きく変わっていたこと。

いじめは、被害を受けた本人だけの問題ではない。

家族には、「なぜ気付けなかったのか」「もっと早く助けられなかったのか」「学校は何をしていたのか」という問いが残る。

その答えが示されないまま、住む場所や学校、家族の暮らしまで変わることもある。

私にとって、理由を告げられないまま経験した転校も、その影響の一つだったのだと思う。

本人が亡くなっても、いじめは終わらない。

残された人の中で、形を変えながら続いていく。

「いじめ」という言葉が行為を薄めていないか

報道では、「嫌なあだ名を付けられた」「無視された」「物を隠された」と、行為が短い言葉で並べられる。

一つだけを切り取れば、「子ども同士のトラブル」「よくある悪ふざけ」と考える人もいるかもしれない。

しかし、それが毎日のように繰り返されたらどうなるのか。

教室へ入ることが怖くなる。

誰も味方がいないと感じる。

勇気を出して訴えても、「冗談だった」「そんなつもりはなかった」と片付けられる。

一つひとつは小さく見える行為でも、積み重なれば人の心と生活を壊す。

暴力があったのなら、暴力と伝えるべきだ。

脅しがあったのなら、脅しと伝えるべきだ。

人格を否定する言葉が繰り返されたのなら、その事実を「いじめ」の一言に押し込めてはいけない。

「違法ではない」と「適切だった」は別の問題

学校をめぐる裁判では、対応に問題があったとしても、損害賠償を認めるほどの法的義務違反ではないと判断されることがある。

裁判所が、証拠に基づいて法的責任の有無を判断する仕組みは理解している。

しかし、法的責任が認められなかったことと、学校の対応が教育的に適切だったことは同じではない。

「一定の対応をした」

「重大な結果は予見できなかった」

「法的義務への違反は認められない」

そうした言葉だけでは、被害を受けた本人や家族の疑問は消えない。

何が行われていたのか。

誰が把握していたのか。

なぜ止められなかったのか。

学校は、本人の訴えをどこまで受け止めたのか。

そこまで明らかにして、初めて再発防止の出発点になる。

私がいじめ問題を伝え続ける理由

私は当時の出来事を、すべて覚えているわけではない。

それでも、理由を知らされないまま転校した記憶は残っている。

子どもだった私の生活も、知らないうちに変えられていた。

だから私は、いじめを単なる学校内のトラブルとして見ることができない。

誰かが学校へ通えなくなってからでは遅い。

深刻な被害が生じてから「重大事態」と認定するだけでも足りない。

本人が異変を示した段階で、教師一人の判断に任せず、学校が組織として動くこと。

本人の言葉を軽く扱わないこと。

保護者や専門職と情報を共有すること。

そして、「子ども同士のことだから」と矮小化しないことが必要だ。

「いじめ」で済むのか

いじめという言葉は、あまりにも広く使われている。

その便利さの裏で、実際に行われた暴力や排除、脅し、人格否定の重さが見えにくくなってはいないだろうか。

いじめで済むのか。

私はこれからも、この問いを投げかけ続けたい。

亡くなった人を忘れないために。

残された家族が抱えるものを、なかったことにさせないために。

そして、理由も分からないまま生活や人生を変えられる子どもを、これ以上生み出さないために。

担当記者 編集長 たかぴ


編集部注:
本稿は、筆者自身の家族に起きた出来事と幼少期の記憶をもとに執筆したコラムです。関係者のプライバシー保護のため、発生時期や学校名など、個人を特定できる情報は掲載していません。

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